先日、とある縁から、知り合いであり且つ共通の趣味を持つ文化人類学者と栗駒高原に行くことになった。かっこよく言うと、フィールドワークに同行したといえるのかもしれないが、要は、旅行だ。
恥ずかしながら、僕は「栗駒高原」を知らなかった。調べてみると、宮城県栗原市にあり、東北新幹線「くりこま高原駅」からすぐに行けるようだ。意外とアクセスがいい。
今回の旅行は、観光というより、とある芸術家を訪ねるという旅だったのだが、たくさんの驚きと発見があったので、何点か書き記したい。
僕が訪ねた芸術家の自宅は、くりこま高原駅から車でおよそ30分のところにあった。茅葺屋根の家で、いわゆる鉄筋コンクリートを使っていない、ほとんどが木でできた”古びた家”だった。
家の中には、囲炉裏があった。
その方の自宅には、通常の家にあるほとんどのものがない。テレビもなければ、エアコンもない。びっくりするかもしれないが、水道もない。井戸水を使っているのだ。
(僕が行ったときは、しばらく雨が降っていなかったため、お風呂にも入れなかった。)
そこにあるのは、美しい陶器、端正に織られた布、手作りの机や椅子などであった。ちなみに、角大師が部屋に飾ってあった。
また、一歩家の外に出れば、まるでタイムスリップしたかのような風景が広がっていた。あまり、感性が豊かではない僕でも、素直に美しいと感じることができた。
茅葺の家、家の中の装飾、外の風景のどれをとっても、決して豪華ではないものの、何とも言えない、質素で簡素な洗練された美しさがあると感じた。
夜は、宴会を開いてくれた。囲炉裏端で、美しい食器にお酒とお肉などを堪能した。その時に話していたことで、忘れられない話が2つあるので、紹介したい。
1つ目が、工業化が進んだ社会において、手作りの良さはなんなのか?という話になったときのことだ。
僕もふと、自分の生活のなかに当てはめて考えてみたときに、例えば大量生産で作られたコップや茶わんは、使う際になんら特別な思いを感じることがない。一方、手作りのコップや茶わんを使うときは(特に、自分や知人が作ったもの)、その作り手のことを浮かべ、その人に対して、何かの思いを馳せながら使っているかもしれない。そこには、確かに、作り手と使い手の時空を超えた会話があるのかもしれないと感じた。
2つ目の忘れない話は、未知の物事に対する向き合いかたについての話だ。知人の文化人類学者の方が、自分が思う「凄い」と感じる人についての話だ。その方は、ベトナムの民族についての研究をおこなっている人で、職業柄、多くの人に会うそうだ。
僕は、この言葉を完全に理解できているのかわからないが、仕事でも同様に、様々な予測不能の事態が生じる。そんなときは、この言葉を思い出して、虚心坦懐に受け止めながら頑張っていきたいと思う。
何気ない旅行で、多くの示唆を得た2日間だった。