日本における化粧の歴史②~独自の文化~

前回のブログで日本の化粧の始まり(赤・黒・白の化粧)について紹介したが、今回のブログでは、中国や朝鮮などの大陸からもたらされた化粧が日本においてどのように発展したのかを紹介したい。

9世紀末から10世紀頃にかけて、遣唐使の廃止など、大陸文化の影響が小さくなるにつれ、日本独自の国風文化がはぐくまれるようになってきた。その中で日本の化粧や美意識についても大陸文化の化粧を土台としながらも独自の発展を遂げた。

中でも「黒の化粧」は、今の僕たちの化粧文化から考えても特徴的である。まず、お歯黒とは、鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かした茶褐色・悪臭の溶液を歯に塗った後、五倍子粉(ふしこ)と呼ばれる、タンニンを多く含む粉を上塗りすることにより黒くしていく。また、眉化粧については、眉を毛抜きで取り去り、眉墨で新たに眉を引くといったものであった。

そして、こういった独自の化粧文化は、主に特権階級の女性だけが行っていたものだったが、徐々に男性にも広まっていった。室町時代にもなると、天皇や公家の男子は、元服の前にお歯黒と眉化粧を行っていた。

さらに鎌倉時代以降になると、武家社会にも化粧は広がっていった。武家社会の男性も基本的に、化粧は身分の高い武将がするもので、権威の象徴とみられていたからだ。例えば、将軍足利家の男子は、元服の際には、お歯黒をしていたといわれているし、豊臣秀吉や徳川家康なども同様に自らの権威を強調するため、お歯黒や眉化粧を行うことがあったといわれている。

なお、こういった権威を示すための化粧とは別に、男性の化粧には、身だしなみとしての側面を持つこともあったようだ。例えば、室町時代末期の武将島津忠義の治世においては、月代をそらず、口をゆすがず、お歯黒をしないことは侍のご禁制とされていた。

このように化粧という文化は様々な意味を与えられながら、日本においては女性だけではなく、男性にも浸透していった。しかし、この時代は特権階級のための化粧であり、まだまだ庶民への広がりはなかった。次回のブログでは、そういった化粧がどのように庶民に広まっていったのかについて追ってゆきたい。

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