日本における化粧の歴史③~庶民への広がり~

今回のブログでは、特権階級のための化粧がどのようにして庶民に広がっていったかを紹介したい。

江戸時代に入ると、約265年に渡る安定した政治の中で、全国で通用する貨幣や街道・海路が整備され、全国的な市場が形成された。とりわけ、17世紀末から始まった元禄文化により、京都・大阪を中心とする上方に豊かな町民(豪商など)が現れ、白粉や紅などの化粧品が安定的に市場に供給され、庶民の手に届くようになった。

この頃の化粧も、従来の化粧と同じく、赤・黒・白の三色を用いた化粧である。なかでも、黒の化粧は、前回のブログ(日本における化粧の歴史②~独自の文化~)でも紹介した通り、現代においても、当時の諸外国においても、珍しい独自の意味を持っていた。例えば、お歯黒をしていれば”既婚”、眉を剃っていれば”子持ち”といったように、黒の化粧を見れば、女性の社会的属性を判断できたようだ。これは、江戸時代の身分制度を重んじる社会が影響を与えたと考えられている。

こうした化粧だが、その販売や宣伝に一役買ったのが、歌舞伎役者である。江戸時代、衣服や化粧、髪型などの流行の発信地は、主に歌舞伎の舞台や遊郭だった。特に歌舞伎は、女性たちの最大の楽しみになっており、数々の流行を生み出した。そして、歌舞伎の流行は、舞台を見た人々の口コミや役者絵、版本などによって世の中に広まっていった。また、中には歌舞伎役者自らが化粧品店を経営することもあったようだ。

19世紀に入ると、化粧品はさらなる広がりを見せていた。例えば、1824年に発行された『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、50軒を超える化粧品店が広告を載せており、本にも載っていない店を含めると、文字通り数多の化粧品店があったようだ。この頃になると、化粧品はもはや庶民にとって欠かせないものとなっていた。

こうした化粧の広がりとともに、様々な種類の化粧品が生み出された。白粉・紅はもちろんのこと、スキンケア商品もあったようだ。次回のブログでは江戸時代の化粧をもう少し深堀して、様々な商品について紹介したい。

About 徳山

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

2017 HOLO BELL Inc.